ヒッタイトを知ろう 
アイタカマ 紀元前14世紀のカディシュの支配者。カディシュはシリア南部に位置し
当時はエジプトとヒッタイト両勢力の対峙する地域であった。
シュッピルリウマ王1世のシリア遠征でカディシュは破壊されアイタカマも
捕らえられてヒッタイト本国へ連衡されたが後にはカディシュ王に復位したと
見られる。ムルシリ2世の治世中に起こったヒッタイト支配に対す
反乱の際、息子によって殺害された。
アムル アッカド語でメソポタミアの西方
ユーフラテス川以西のシリア地方を指す一般的呼称。
シュメール語のマルトゥに対応し
西セム系の民族グループ名、神名としても用いられた。
狭義には前2千年紀後半における地中海沿岸の一地方ないし、王国をさす。
トトメス3世時代にシリア・パレスチナに成立したとされる
3つのエジプト属州のうち
アムル州の領域は、概略的にウガリット、ビブロス、レバノン山脈の
内側と推定され州都ツムルには、エジプト人長官が派遣された。
しかし、前14世紀中葉に城内の一属王アブディ・アシルタが
領土拡大を開始しその息子アジルの時代には、アムル全域を
征服した後、ヒッタイトに服属した。
以後アムルはカディシュの戦い当時の一時的な離反を除いてヒッタイトの
忠実な属国として存続したが、おそらく前12世紀初葉に滅亡。
ラムセス3世時代に海の民がアムルに進出した事件、
また前11世紀における
アムルの王ザカル・バァルの存在が知られる。
アララハ 前2千年紀のシリア北部にあった王都現在のテル・アチャナにあたる。
すでに前3千年紀末のエブラ文書にその名が現れ、前2千年紀前半には
ハラブを中心とするヤムハドの支配下にあった。
アララハはヒッタイト王ハットゥシリ1世の遠征で破壊されたが、その後、
再建されミタンニ王国の属国になった。
前15世紀の王、イドリミの碑文にはこの頃の状況を物語っている。
前14世紀半ば、シュッピルリウマ王によって、征服された後は、
前1200年頃に
滅びるまでは、アララハはヒッタイトの支配下にあった。
多数の粘土板が発見されているが前17〜18世紀のものと、
前15世紀のものに分けることができる。
地中海東岸とメソポタミアを結ぶ商業の拠点であったことがわかる。
アジ・ハヤシャ アナトリア北東部に位置した国、(上方の国)
カシュガ、イシュワと国境を接していた。
文書には同国の名前としてアジとハヤシャの両方が現れる。
同国の王、カランニ(またはランニ)は、ヒッタイトの
シュッピルリウマ1世と条約を結びヒッタイトの属国となった。
その後、独立したこともあったが、王アニヤの治世になると
ムルシリ2世の攻撃を受け、再びヒッタイトの属国となった。
トゥトハリヤ4世の時代には見張りが置かれていた。
アン・タフ・シェム祭 ヒッタイトの春の例大祭、秋のヌンタリヤシュハ祭
などと並ぶ最も重要な祭礼のひとつ。
アン・タフ・シェム祭の名称は植物(クロッカス?茴香?)の名前による。
祭儀は約38日間に及び、ハットウシャを中心に
近隣の主要な祭祀の中心地を巡回して行われた。
アン・タフ・シェム祭には祭りの全行程を簡潔に一覧した『概観タブレット』と
個別の祭儀の詳細にした書板の2種類が知られている。
その成立過程は明確ではないが、
(最も古い写本には紀元前1400年前後の
中王国時代後半に年代付けられる)本来複数の各々
独立した祭儀であったものが、
時代と共に展開、発展し一つの祭りに統合されていったものと考えられる。
祭儀は全体の半分以上がハットウシャで行われ、
アンクワでの『雨の祭儀』で終わる。
祭儀を主催するのは王、ならびに王妃で中央アナトリアの
ハッティ-ヒッタイト系の神々をはじめ、フリ系、ルゥイ系などの神も
祭祀の対象となっている。
アルワムナ 紀元前15世紀前半
テリピヌの正当な後継者であったと考えられるが
両者の間にタフルワイリが王位に就いていた可能性もある。
王妃のハラプシリ(ハラプシェキ)はおそらくテリピヌの娘。
アルワムナの時代に年代付けられる文書としては
子のハンティリ(ハンティリ2世)への贈与に関する文書が知られている。
また、アルワムナの王印は特定の王名の記された最も
早期のヒッタイト王印とされる。
アシュワ ヒッタイト王国時代の小アジア北西地方及び、同地方に存在した
諸勢力の連合体の呼称。
アジアはアシュワに由来すると言う説もあるが確証はない。
同地方のアシュワ勢力の文献初出はトゥトハリヤ2世の年代記で
同王によるアシュワ征服とアヒヤワ勢力のウィルシャやタルイシャを含む
22の勢力の名が上げられている。
又、当時の小アジア西方ではアシュワのほかにアルザワがヒッタイトに
敵対する勢力として存在した。
アニッタ カニシュの王。クシャラの王であった父ピトハナがカニシュを攻撃、
後に子のアニッタはここを拠点として中央アナトリア、黒海地方の
有力な都市(プルシュハンダ、ハットウシャ、ザルバなど)を次々と支配下に
おき、次第に覇権を確立していった。
アニッタの具体的な治績についてはハットウシャから出土したアニッタ文書が
ほとんど唯一の資料となっているがアニッタの王朝と後のヒッタイト王国との
関係は詳らかではない。またアニッタがハッティ系の王かそれとも外部から
移動してきた印欧語族かに関しても論議が分かれる。アニッタはアリシャルや
キュルテペ出土の古アッシリア商業文書にも言及されておりキュルテペの遺丘
からは「王宮、アニッタの、王の」という銘文入りの短剣(槍の穂先)が
発見されている。
アリンナ ヒッタイトの重要な宗教都市。正確な位置はまだ明確にされていないが
ハットウシャから一日行程の比較的近距離にあったことが知られている。
表意文字では泉、井戸の意味を持つ。
ハッティ系の宗教祭儀の最も重要な拠点。
古王国時代以来ヒッタイトのパンテオンの最高神である太陽女神の祭儀の
中心として特別な位置を占めてきた。ハットウシャと同様「神の街」とされ
太陽女神をはじめ、その娘のメズラ、孫のジントゥヒなどの神殿、また、王、
王妃の王宮も置かれた。
ヒッタイト法によればアリンナの神官は租税、賦役の義務を特に免除された。
アルザワ 紀元前14〜紀元前13世紀にかけて小アジア西部に影響力を持っていた
ルゥイ系の国家。(広義にはアパウィヤ、クワリヤ、
シェハ川国、ハパラ、ミラなどの勢力を
含むアルザワ諸国もさす。)ヒッタイト文書にはすでに古王国時代から登場する。
ヒッタイトが彼らを西方に追う形で小アジアに進出したことが推察される。
アルザワはアヒヤワ、アシュワと並んでヒッタイトに対抗する勢力で
あったがムルシリ2世の
年代記によると治世3~4年の2年間に完全に平定されたとある。
アルザワの名が注目されたのは、エジプトのアマルナ文書のなかに、
アルザワとエジプト間の往復書簡(アルザワ文書)が発見され、
これが小アジアへの関心を呼び、最終的には
ヒッタイトとそのその言語の解明に道を開いた。
アンクワ 古代アナトリアの都市。現在のアリシャルあるいはその近辺にあった。
(決定されてはいない)
アッシリア商人居留地時代の文書に登場している。
カニシュの王、アニッタの時代にはその支配下にあった。
ムルシリ2世が(他の王も)冬を過ごした場所としても知られ
、宗教、祭儀の面でも重要な
役割を担った。アンクワの主神はハッティ系のカタハ(女王の意)
アンムナ ヒッタイト古王国時代の王。(紀元前16世紀)
父ジダンダ1世を暗殺して王位に就く。アンムナの
治世下ヒッタイトはアダニヤ(アダナ)
アルザワなど南、南西アナトリア諸国に対する支配力を失い、
その勢力は大きく後退する。
イシュプタフシュ キッズワトナ国の王。パリヤワトリの子
古王国時代末のヒッタイト王テリピヌとほぼ対等の条約を締結したほか
タルスス出土のブッラ(封泥)上の印影によれば『大王』を称した。
イシュワ ユーフラテス川上流東岸の地。ヒッタイト軍がタウルス山脈と
ユーフラテス川を越えて
東方に進攻する際の北ルートの通過点。トゥトハリヤ1/2世の東方遠征や
シュッピルリウマ1世のシリア・ミタンニ遠征の際に征服されたり、
領土を併合されたりした。
紀元前13世紀に独立を回復
イシュワ王、アリ・シャルマとエフリ・シャルマの名が知られている。
ヒッタイト滅亡後の歴史は分かっていない。
イナル ハッティの女神(ヒッタイト)ハッティに起源を持つ重要な神の一つで、
既にアッシリア商人居留地時代の人名にその用例が認められる。
ハッティ系の神話、特にイルヤンカを巡る神話で中心的な役割を担った。
ヒッタイト古王国時代にはハットウシャの都市神、守護神として
パンテオンにおいても比較的高い位置を占めしばしばハパンタリという神を伴う。
イナルが姿を隠す神話によればイナルは天候神の娘とされている。
イリテ シリア北部の都市。カルケミシュの東方の地域にあったと思われる。
紀元前2千年紀後半には、ミタンニ
王国の支配下にあった。紀元前13世紀前半、
アッシリア王、アダド・ネラリ1世によって破壊された。
イルヤンカ ハッティ起源の神話に出てくる蛇の形をした怪物。神話では天候神と戦う。
この神話は2種類伝わっているが互いの関係は不明。
そのうちの一つでは天候神を打ち負かした
イルヤンカを女神イナラ(イナル)が穴から
誘い出して祭り用の飲食物を与え酔って帰れなくなったところへ
協力者のフパシヤが縛り、天候神がこれを殺すというもの。
もう一つは
イルヤンカに目と心臓が奪われた天候神が自分の息子が
イルヤンカの娘と結婚したときに
彼に頼んで目と心臓を取り戻し、海でイルヤンカを殺すというもの。
どちらも新年に行われたプルリ祭なかで語られたと思われ、ネリクの天候神と
結び付けられている。
アナトリヤの東部のマラティヤで発見された浮き彫りでは二人の神が
蛇と戦うべつ面が描かれており、この神話、或いは類似の神話との
関係を示唆する。
この二つ目の神話はギリシヤに伝わって、テユフォン神話になったが
伝承の過程は不明。
ウルミ・テシュプ タルフンタシャの王。ヒッタイト王(ハットゥシリ3世)
との宗主権条約が残されている。
ヒッタイト王ムワタリ2世の子であると考えられる。
が、同じタルフンタシャ王、クルンタと同一人物であるとする説もあり、
その場合彼は、フリ語名とルゥイ語名を持っていたことになる。
タルフンタシャはヒッタイトのアナトリア西部支配の拠点であり、
ヒッタイトの王族でもある彼は、他の属国王とは異なる地位と権限を
与えられていたと考えられる。
ウィルシャ ヒッタイト王国時代のアルザワ、アシュワに近接する
小アジア北西地方の呼称。
ウィルシャをホメロスのイリアス、ウィルシャの王アラクシャンドゥを
ギリシャ名アレクサンドロスに対応させる説が有力。
ウリクンミ クマルビを巡る一連のフリ系神話のうち、最後の話に登場する神。
クマルビと大岩の間に生まれた神。
この神話はポアズキョイ出土の粘土板文書に伝えられているもので、
3枚の書板からなる。
第一書板によるとクマルビは自分を天の王位から
追い出した天候神を倒すために、
故郷ウルキシュを出るが旅の途中で大岩との間にウリクンミをもうけ、
これに天候神を打ち負かす役目を与え、
ウペルリ(ギリシア神話のアトラスに比べられる)の肩にのせる。
第2書板では、
太陽神から状況を聞いた天候神がハジ山の上から海面上の
ウリクンミを見て恐れる。
姉妹のイシュタルが蛇ヘダムを退治したときと同様に誘惑しようと試みるが
ウルクンミの耳と目が不自由なので失敗する。
第3書板では
天候神が知恵の神エアに頼んでウペルリの天と地を切り離すことで
ウリクンミの力を密かに奪う。
現在見つかっていない書板に天候神の勝利が描かれていると思われる。
この神話もギリシヤのテュフォン神話に似ている。
ウルシュ シリア北部の都市(正確な位置は不明)古くはエブラ文書に言及され
古アッシリア時代にはカールムが設置されるなど、
重要な交易の中継地であった。
ヒッタイト王ハットゥシリ1世によるウルシュ攻囲を
主題とした文芸作品がある。
ウスヌ ウガリット南方の都市。
紀元前14-13世紀のウシュナトゥ、連合王国を形成するシヤンヌとともにウガリットの
属国であったが、ヒッタイトのムルシリ2世によってカルケミシュの支配下に編入された。
カルカルに闘いでは反アッシリア同盟に参加。
エスキヤパル ポアズキョイの北東21qにある遺跡。
前期青銅器時代からビザンティン時代までの文化層の存在が確認されている。
前期青銅器時代では住居跡から金/銀製の容器/武器/装身具などの
埋葬品が一括して出土した。
ヒッタイト時代では城壁で囲まれた大規模な都城跡が発掘されている。
古ヒッタイト時代の小神殿跡が注目されている。
多様な祭儀用土器が一括して発見されている。
オルタキョイ 中央アナトリアの都市チョルムの南東約50q、
オルタキョイ村の南西2.5qに位置するヒッタイト帝国時代の遺跡。
古代名シャピヌワ。
前13世紀の帝国時代の火災を受けた王宮が確認されている。
建築構造内からはエジプトからの搬入品えお考えられる装身具類、
青銅製獅子面飾り板オーソスタットの一部、
また3000枚を越すヒッタイト、フリ、アッカド語で記載された
粘土板文書が出土している。
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